ぼくはいつもそう語りかける。
この投げかけに多くの人は、
「私は絵を描けません」
「歌ったり、踊ったりできません」
「アートに関する才能なんてないです」
「冒険なんてできないし、したことない」
と、拒否反応を示してくる。
〝アーティスト〟や〝冒険家〟という言葉の響きに
尻込みしてしまうからだ。
でも、そうじゃない。
〝アーティスト〟とは
ある芸術の分野に長けている人の
ことだけを指している言葉ではないんだ。
〝冒険家〟とは
極寒の北極大陸を徒歩で踏破したり、
自転車でアメリカ大陸を横断したりする人の
ことだけを指している言葉ではないんだ。
「生きる」とは、
命を燃やしながら、人生というキャンバスに
自分を描き、表現し続ける行為。
つまり、
〝人間=アーティスト(表現者)〟ということだ。
あとは、あなた次第。
その事実を認めた上で
表現者としてあなたの人生を生きるか、
その事実から目をそむけて
〝自分らしさ〟を封印したまま
残りの余生をなんとなく過ごすか。
覚悟があなたの人生を決める。
その覚悟さえあれば、あなたは自由になれるんだ。
でも日本には、もはや時代遅れで画一的な
「生き方」や「成功」を
〝ジョーシキ〟や〝正解〟として
押し付けるガチガチの教育システムと
強烈な社会重圧、同調圧力がある。
それは、支配者層にとって都合のいい
コントロールしやすい人間を、
大量生産するために張り巡らされた
巧妙なソーシャルシステムだ。
だから、あきらめて欲しくないんだ。
どんなに強い力で箱に押し込まれそうになっても
最後まで抵抗して欲しい。
死ぬ気になって
あなただけのかけがえのない
美しき〝いびつさ〟を守り抜いて欲しいんだ。
でも、ひとりで頑張る必要はない。
自ら先に心を開き、本気で探せば
必ず〝ひとり〟は味方がいるから。
それは家族かもしれないし、
友かもしれないし、恋人かもしれない。
SNSでつながった同志かもしれない。
その人は
あなたのピースに欠けている部分を
補ってくれるだろう。
そして、あなたの出っ張りは
その人の隙間をしっかり埋められるだろう。
世界はそういうふうにできている。
ここで声を大にして伝えたいのは、
〝本当の味方〟は、
ひとりいれば充分、ということ。
もしあなたが
不安に押しつぶされそうになったとき、
この話を思い出して欲しいんだ。
味方は、ひとりだけでいいということを。
あなたが生まれ持った
その〝いびつさ〟こそが
〝あなた独自の美しさ〟となる。
繰り返して言うが、ぼくの眼にはそれが
〝小さな輝き〟として見えるんだ。
その人にしかない〝感覚や好き嫌い〟を
ぼくは〝いびつさ〟と呼び、
そのカタチがいびつであればあるほど、
その光はまぶしいほどの力を放つ。
その輝きこそが、
人を〝オリジナルワン〟たる存在にする。
その神聖な〝いびつさという輝き〟に触れた瞬間、
ぼくはその人にアーティスト性を感じるんだ。
言葉を変えると、
それは〝才能〟や〝感性〟という意味も含んでいる。
ぼくがこれらの言葉を持ち出すと、
拒否反応を示す人が必ずいる。
〝才能=ホームランバッター〟
〝感性=天才的なセンス〟ではない。
決して、ない。
人類全員が自分自身のいびつさを認め、
その本来のカタチを取り戻すべく
自分自身に集中すれば、
他人の人生を生きようとしたり、
他人をうらやましいと思ったりしないはず。
そして、
他者のいびつさも認められるようになり
自分とは違う、そのいびつさを美しく
愛おしく思えるようになるんだ。
人種、性別、外見、出自など
表面的などうでもいいことで
人を差別することもなくなるだろう。
差別ほど〝非クリエイティブな行為〟
はないと誰もが気付くだろう。