夜と霧

「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」ニーチェ

生きることは日々、時々刻々、問いかけてくる。

わたしたちはその問いに答えを迫れている。

考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な状態によって、正しい答えは出される。

生きることはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。

したがって、生きる意味を一般論で語ることも答えることもできない。

生きることの意味を問うのをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。

人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。

だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。

この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。

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自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。

まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。